人はなぜ群れたいのか
どんなに困窮しても、集団の中に属していたほうが生き残れる確率が高かった、という時代が長かったことの名残ではなかろうか。たとえ、現在は物質的に恵まれているとしても、一年後にも同じくらい恵まれているかどうかは分からない。何がしかの群に所属していれば、そういう一人では乗り越えられないような困難でも乗り越えられるかもしれないという、潜在的な意識があるように思う。明示的に「群れたほうが安全だから群れよう」とか自分で考えるわけではない。あくまで、群たほうが生存確率が高かったという過去の(種族としての)経験によって、自分としては何ら論理的な理由をもたないのに、なぜか「群れたい」という漠然とした感情が起こるということだ。これが、現在は物質的に特に困っていない人にも、群させたいという欲求を起こさせる原因ではなかろうか。*1
とかいうことを、NHK スペシャル「なぜ人間になれたのか」を見てて思った。人間が生きている意味なんてものは実のところなく、単に「(個体ではなく、種族全体として)生きのびる機能が発達した」から、今のように生きのびてきているだけという、結果論的なものを強く感じる。何か目的をもって生きている(生かされている)のではなく、生きる機能があるが故に生きている、というだけのことだ。*2
何がしか目的を持って生きたいと思うこと自体、そのように確固たる目的を持っていたほうが生きのびやすかったという過去の経験が、遺伝子に刷り込まれているだけかもしれない。つまり、人が生きる目標なり目的なりを持ちたがることも、人に備わっている「生きのびるための機能」の一つにすぎないということだ。そして、存在しない「普遍的な生きる目的」を永遠に探し続けることが、人間の生きる機能を高める原動力になっているのではなかろうか。